前原君 ≫≫立命館大学 進学

現役時、伊勢崎清明の中で下位。帝京大を記念受験。
1年後、立命館大学合格!

前原君≫≫立命館大学 進学 / 伊勢崎清明卒


伊勢崎清明の3年生の半数は短大・専門学校へ進学する。4年制大学へ進学する者の多くは推薦入試を中心としている。いわゆる大学受験勉強組は少数である。その高校の中で、前原は学年最下位グループ(240人中200位ぐらい)に居た。野球漬けの3年間を過ごし、その部内においても“勉強ができないキャラ”として確立していた。高3時の受験は、センターで英語・国語は4割。政経だけ6割。一般入試では東洋・帝京を受験。全く受かる見込みのない記念受験だった。受験する前から浪人覚悟だった。不合格後に浪人したい旨を打ち明けたところ、周囲に一斉に反対された。無理もない。今まで受験勉強してこなかったし、学年上位の生徒が3~4人浪人する高校の中で、下位の前原が浪人することは無謀にしか映らなかったはずだ。前原はこれまで勉強でも野球でも大きな成果が得られたことはなく、「俺は勉強もダメ、野球もレギュラーになれなかった。何の才能もない。」と自己嫌悪な気持ちで卒業式を迎えていた。

そんな前原の元に前橋表町校の資料が届く。説明会に参加し、ほどなくして入会手続きをとった。決め手は、高卒専用校舎と拘束制度だった。
4月から拘束制度開始。これまで学習習慣がなかった前原にとって、4月は慣れるのに精一杯だったが、徐々に慣れていった。授業は基礎の講座から順調に受講し、確認テストもスムーズに合格していった。

6月のマーク模試。英語が30点上昇。これにより、4月模試→6月模試 上昇者 に前原の名前が掲示された。ここで前原は大きな自信をつける。「俺でもできるんだ!」

この頃、勉強時間が1教科に偏ることが多く、面談では各教科の勉強法とバランスの指導を受けた。8月マーク模試では、英語がさらに50点上昇した。2回連続で上昇掲示に載れたことで前原はさらに自信をつけていった。10月マークでは国語も上昇したが、その後のマーク模試では苦戦した。ただこの頃から前原はセンター利用で合格するお一般入試の方に活路があると考え、センター演習の量を抑え、一般入試の対策をメインに置いた。

12月のセンター模試は得点がダウン。センター本番も低得点に終わった。センター対策を重視していなかったとは言え、前原はかなり落ち込んだ。「センターでこんな得点のおれが立命館とか取れるわけがない。」と。だが、前橋表町校のガイダンスや担任の言葉により前原は勉強に集中していった。「勉強の手を止めると不安が襲ってくるし、自己嫌悪にもなる。だから変に気分転換もしなかったし、勉強だけをやることにしました。」

最初の拓殖大の試験は十分な手ごたえであった。続いては本命の立命館。当初、明治や法政の受験も考えていたが、過去問題対策を立命館に絞って学習してきたのだった。3日の試験も4日の試験もある程度戦えた。ただ拓殖のような手ごたえはもちろんない。ただ、これまでの45週間の勉強をやり切った感、自分の力を出し切った充実感が確実にあった。

運命の発表は2月15日。13時。自宅にて一人で合格発表を見る。

3日分を見た。番号は無い。そして4日分。

番号がある! 受験票の番号を何度も見直した。前原は驚き過ぎて叫べなかった。
最初に母に電話した。今まで泣く姿をみせたことの無い母が電話先で泣いていた。
父も相当な驚きだった。東進には直接訪問して報告した。友人達へもラインで報告。

実は前原は一年間ラインを封印していたのだ。“久しぶり”と“合格報告”のラインは大きな盛り上がりだった。「え!!?お前が立命館!!!」と「おめでとう!!」の文字が躍る。

顧問と担任には直接報告した。やはり大きな驚きと称賛を頂けた。1年前、失意の卒業式と同じ場所で前原はすがすがしい気持ちで校舎の景色を目に焼き付けた。本当の意味で心から卒業できたのだった。

ー完ー

<本人から 同じぐらいの学力の後輩へ>

自分は合格体験記や予備校サイトを読んだ際に、“元からできる人(進学校の生徒)がすごい大学に受かる”という事例は、自分の琴線に触れなかったです。どこか別世界の気がしたんですね。でも、前橋表町校の体験談や勉強会では、基礎からの生徒が伸びて受かった事例や要因が沢山紹介されていて、とても共感・希望が持てました。この校舎ではできる生徒も基礎の生徒も平等だし、伸び幅を最大に評価してもらえる環境がとても良かったです。そして今度は自分がその事例として紹介されたのは本当に光栄です。後輩には自分よりさらに大きな伸び幅を実現してほしいです。

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